平らかに鑑ること。得たものと、代償としてスポイルされたもの。
自分という一回性の経験にとって、統計的な判断にどれくらい意味があるのか。
目隠しして高速道路を横断する。
99.9%の人は途中で跳ねられる。
しかし1000人のうち1人は絶妙なタイミングで対岸までたどり着く。
このとき、自分が99.9%側の人間なのか、選ばれた人間なのかは、渡ってみないと分からない。
そして渡ってみて結果が分かった時点ではもう、確率は意味をなさない。
これは、99.9%安全な横断歩道を渡る場合にも言える。
そんなことを思うけど、だからといって気軽に高速道路を横断しようとは思わないし、恐怖におののきながら横断歩道を渡ったりもしない。
我々の日常においては、蓋然性が有効に機能してる。
農耕に始まる、文明の成り立ち自体が、未来を予測可能にすること、蓋然性を高めることを目的としている。
ハートロッカーとかアンナプルナ登頂の極限の世界は、蓋然性と運命がせめぎ合う世界なのだろう。
そこにはリアルな生の肌触りがあるのだろう。
本質的には、我々の日常も、蓋然性と運命がせめぎ合っているはずなのだ。
だが私は、蓋然性の毛布にくるまってウトウトしている。
サイコロの振られる音を聞く耳を持たないといけない。
夜、皇居の周りを走るか歩いている。
左に黒い森。
霧が出ている夜は、輪郭が滲む。
遠くには巨大なビル群が固まって立っているのが夜に沈み、一つの巨大な灰色の城塞のようだ。
その灰色の城塞の無数の窓から光が漏れている。
その抽象化された風景をみていると、今自分は走っていると同時に、
あの巨大な城塞都市の窓の光の下にも居るような気持ちになる。
過去から未来へ向かう矢がペタンと横に倒れ、
全てが今同時に起きているような気持ちがする。
これは多分ノスタルジーだ。
過去と未来を得たヒトが、その束縛から逃れられる瞬間、というのが、ノスタルジーなんじゃないかと、思った。
事物が抽象化されると、そこにヒトは勝手に情報を補間する。だから抽象的な事物は豊かなのだ。
みたいなことを書こうと思ってたんだけど、全然そういう話にならなかった。
課題は発見されなければ課題として存在しない。
課題は文脈の中で発見される。
文脈上の課題は文脈を越えられない。
あらたな支脈を作る課題を発見しないといけない。
課題発見と創造というのは、一つの現象の裏と表なんじゃないか。
うーん。。。
と考えている、という状況を自分で認識している時、
それは考えているポーズを取っているにすぎない。
考えていることを考えている、無限ループの心地よい麻痺状態に浸っている。
深い井戸の闇に住んでいると言われる自分の中のスーパーな自分が、答えをひょいと差し出してくれる瞬間を待ちわびている。
もちろんスーパーな自分は現れない。現れたことはない。
要は、思考というポーズをとって休憩しているのだ。
思考は、もっと能動的でなければいけない。
外部との対話の中で、敷延と帰納、誤解と飛躍を繰り返し、小川のせせらぎに散在する飛び石を跳ね渡りながら、自分を動かしていかなければならない。
そうして、やがて川底に光る鉱石を見つけるだろう。
ということを、ここ一週間で思った。
これは、クリエイティビティの量と質の両面において、すげー大事なことだと思った。
連続性について考える。
想起するのは、順列都市で行われる、世界のシャッフル再生のシーンだ。
そこから展開される塵理論はついていけないけど。
とにかく、我々は連続性を感じる世界にいる。
非可逆的に思える世界にいる。
意味は、全て連続性の中から生まれてくる。
連続性こそが世界だ。
植物とかミネラルとか置いておいて、
我々の食べるものは、基本的に死んでいるものだ。
客観的には、我々は死を食している。
気持ち的には、我々は命を頂いている。
死を食しているのに、生を頂いている。
このズレは、なにか人間の思考の性癖の芯に触れている気がする。
生の反対は死なのだろうか。
生きているものが死んだ時、それは死んでいるという。
生があって、はじめて死がやってくる。
逆は無い。
生まれる前は死んでいない。
ただ、生まれていないだけだ。
死の大地から生命が息吹くと、感動を覚える。
それは死と生の順序が逆転しているからだ。
生の後の死はいつまで続くのだろうか。
無限に死という状況が続くのだとすれば、死に対する生の時間は、限りなく無に等しくなる。
そうは思えない。
死というのは、生の残り香だ。
外見が生命の形を保ち、ヒトの記憶の中で生の面影を偲ぶことのできるあいだ、それは死んでいる。
肉体が土に帰り、人々の記憶から滑り落ちた生は、死ではなくなる。
ただ、存在しなくなる。
この世界にあって、生というのはなかなか特殊な現象のように思えるけれども、それと同程度に、死は特殊なのだと思う。
そういう、客観的な死という状態と、自分自身にやがて訪れる「死」というものは、果たして同じモノなのだろうか?
ということを正月早々考えた。
ファミレスで子どもに未来を体験してもらうコンテンツの作業をしている。
周りでは浮浪者あるいはその寸前の人達が寝ている。
子どもに未来を語るのは、大人に語るよりはるかにやさしい。
大人に未来に目を向けてもらうのはどうしたらいいんだろうか。
子どもと大人で何が違うのかというと、自分の力で生きていかないといけないというところで、それはやはり難しいことなのだろう。
僕や奥さんの両親は非常にしっかりしているので、仮に僕がお金を得られない状況になっても、多分大丈夫だとは思う。
でも東京で働き出して、道ばたに野宿している人を見る度に、そこに自分が寝ている姿を想像するのはそれほど難しくなかった。
キーボードとマウスを叩いたり引っ張ったりするだけで、なんでお金がもらえるのか、いまだに不思議でしょうがない。
彼らと自分にどういう差があるのか、分らなかった。
走り始めて、すこし浮浪者と自分は違うんだと思えるようになった。
おそらく彼らは走らないだろう。
人間として生きていくというのは、未来に目を向け、そこに向けて準備していくことなんじゃないか。
そういう態度を持ち続けることができれば、多分大丈夫なんじゃないか。
大人について考えると、自分のこと以外はなかなか考えられない。
なにはともあれ、今はそんなことを考えている場合じゃなくて一刻も早く仕事を終わらせなければならない。
今、自分の作っているものが、少しずれている感覚がある。
イメージできない要素を多く盛り込みすぎてしまった。
自分の経験値が活きない領域が多すぎる。
かといって、イメージできる範囲にゴールを見いだせない。
結果として、精度が落ちる。
理屈のための理屈に陥る。
この感覚には記憶がある。
いわゆる、スランプというものかもしれない。
しかしとにかく、作り続けるしかない、挽回するしかない、ということも知っている。
