June 2009アーカイブ
タクシーの運転手が、立ち食いそば屋の前に車を停めて寝ていた。
食べてから寝たのだろうか。起きたら食べるのだろうか。
通常、立ち食いそばというイベントは、通過点であって、目的地にはなり得ない。
しかし、立ち食いそば屋の前に車(ベッド)を持ってくることで、宿泊という目的に限りなく肉薄した位置に立ち食いそばを移動させ、大きな視点で見たときに、立ち食いそばを1日の終着点に持って行くことに成功している。
食べてから寝たのだろうか。起きたら食べるのだろうか。
通常、立ち食いそばというイベントは、通過点であって、目的地にはなり得ない。
しかし、立ち食いそば屋の前に車(ベッド)を持ってくることで、宿泊という目的に限りなく肉薄した位置に立ち食いそばを移動させ、大きな視点で見たときに、立ち食いそばを1日の終着点に持って行くことに成功している。
PCで作業してもいいって書いてたから来てみたけど、
Office
http://www.transit-web.com/shop/cafe/office/
http://hack-space.com/sh.php?shno=121
TOKYOのナイトライフを楽しむ男女しか居ない。
とにかくMacBookでほんとによかった。でもAdobeのTシャツは失敗だった。
Office
http://www.transit-web.com/shop/cafe/office/
http://hack-space.com/sh.php?shno=121
TOKYOのナイトライフを楽しむ男女しか居ない。
とにかくMacBookでほんとによかった。でもAdobeのTシャツは失敗だった。
同じ力場にコミットしている人がやがて移ろい、異なる領域に向けて移動することがある。
移動というのは、その場の他人からみれば去っていくことになる。
移動する人にとっても、そういう風に感じられることを感じるだろう。
コミットメントと人とのつながり、依存関係、その状態の変化について考えてみたいと思ったけど手が出ない。
もう一つ、銀河鉄道の夜で様々な神様の元に去っていく人々を見送るジョバンニの悲しみも連想する。
個人を得、自由に縛られると、他者と対立することになる。
他者を許容できるかどうか、というのは切実な問題だけど、理屈から言えば、
解決策は、個人なんてどうでもいいじゃん、ということになるんだろうか。
移動というのは、その場の他人からみれば去っていくことになる。
移動する人にとっても、そういう風に感じられることを感じるだろう。
コミットメントと人とのつながり、依存関係、その状態の変化について考えてみたいと思ったけど手が出ない。
もう一つ、銀河鉄道の夜で様々な神様の元に去っていく人々を見送るジョバンニの悲しみも連想する。
個人を得、自由に縛られると、他者と対立することになる。
他者を許容できるかどうか、というのは切実な問題だけど、理屈から言えば、
解決策は、個人なんてどうでもいいじゃん、ということになるんだろうか。
思ったことを忘れていっている恐怖感が強いので、とにかく書いておこうと思う。
自由からの逃走は、教養人の馬場としては当然読んでおくべき本だ。
しかしまだ29ページ目だ。しかしすでに結論が書かれていて、圧倒的な普遍性を感じる。
「すなわち他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由になればなるほど、そしてまた彼がますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。」
これは要は、能動的にしろ受動的にしろ、自由度の強さに応じて何かに対するコミットメントが必要となる、ということでいいんだろうか。逆に言えば、個人の確立というのは、何にどれだけコミットしているかという、そのコミットの質の問題ということになるんだろうか。
さらに視点を変えると、自由というものがそういうものなのだとしたら、なぜそれにも関わらず自由という言葉に憧憬を覚えるのだろうか。
イーガンの短編で、イデオロギーが物理的な吸引力を持つ世界でその間隙を縫って歩く人は、実は「その間隙を縫う」というイデオロギーの力場に閉じ込められており、そのことを認めるのはひどく痛みを伴った、みたいな話があるんだけど、これはなんか示唆的だ。
自由というのはそういう、必ずメタの視点から眺めることを強要するような力があるような気もする。
自由つながりで、ミヒャエルエンデが自由の牢獄という短編を書いているが、そこで言われている自由と、上の自由は何か別の話のような気がする。
この本が強く心を動かすのは、ナチズムの反省という、非常に大きな歴史的な反省を、自分たちにとっての切実な問題として書ききっているところにあるんだろう。普遍性というのがどうやって得られるのか、という意味でも興味深い本だ。
まあ、とにかく全部読もう。
次は、自由と去就というテーマで書く。
自由からの逃走は、教養人の馬場としては当然読んでおくべき本だ。
しかしまだ29ページ目だ。しかしすでに結論が書かれていて、圧倒的な普遍性を感じる。
「すなわち他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由になればなるほど、そしてまた彼がますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。」
これは要は、能動的にしろ受動的にしろ、自由度の強さに応じて何かに対するコミットメントが必要となる、ということでいいんだろうか。逆に言えば、個人の確立というのは、何にどれだけコミットしているかという、そのコミットの質の問題ということになるんだろうか。
さらに視点を変えると、自由というものがそういうものなのだとしたら、なぜそれにも関わらず自由という言葉に憧憬を覚えるのだろうか。
イーガンの短編で、イデオロギーが物理的な吸引力を持つ世界でその間隙を縫って歩く人は、実は「その間隙を縫う」というイデオロギーの力場に閉じ込められており、そのことを認めるのはひどく痛みを伴った、みたいな話があるんだけど、これはなんか示唆的だ。
自由というのはそういう、必ずメタの視点から眺めることを強要するような力があるような気もする。
自由つながりで、ミヒャエルエンデが自由の牢獄という短編を書いているが、そこで言われている自由と、上の自由は何か別の話のような気がする。
この本が強く心を動かすのは、ナチズムの反省という、非常に大きな歴史的な反省を、自分たちにとっての切実な問題として書ききっているところにあるんだろう。普遍性というのがどうやって得られるのか、という意味でも興味深い本だ。
まあ、とにかく全部読もう。
次は、自由と去就というテーマで書く。

banksyのこの写真を見て、ここから何かルールを抽出できるんじゃないかと思い、やってみた。
最近、酒の席の会話、酒を飲んでから次の日起きるまでの記憶が、かなり薄くなってきている。
もともと記憶の減衰率が甚だしいのだけど、そういう長期的なのとは別に、記憶を掴む握力的なものが、落ちている気がする。
失われた記憶の風景は、漆黒の闇ではなく、むせかえるように濃い乳白色の霧だ。暗闇と空白で怖いのはどちらだろう。
とにかく、酒の席での馬場の発言は一切信用しないでください。
もともと記憶の減衰率が甚だしいのだけど、そういう長期的なのとは別に、記憶を掴む握力的なものが、落ちている気がする。
失われた記憶の風景は、漆黒の闇ではなく、むせかえるように濃い乳白色の霧だ。暗闇と空白で怖いのはどちらだろう。
とにかく、酒の席での馬場の発言は一切信用しないでください。
1日の始まりは起きた時じゃなくて、寝る時だ。
眠りの質と量が、起きた後のその日のパフォーマンスを大きく左右する。
起きる時間は大体決まっているはずなので、となると寝るタイミングが重要になってくる。
眠くなったら寝るという今の姿勢は、よくないかもしれない。
今元気だからと言ってずっと起きてて夜更かしすると、次の日動けなくなる。
まあ、かといって、元気なのに寝るのももったいないんだけど。
眠りの質と量が、起きた後のその日のパフォーマンスを大きく左右する。
起きる時間は大体決まっているはずなので、となると寝るタイミングが重要になってくる。
眠くなったら寝るという今の姿勢は、よくないかもしれない。
今元気だからと言ってずっと起きてて夜更かしすると、次の日動けなくなる。
まあ、かといって、元気なのに寝るのももったいないんだけど。
