つながりのルール

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思ったことを忘れていっている恐怖感が強いので、とにかく書いておこうと思う。

自由からの逃走は、教養人の馬場としては当然読んでおくべき本だ。
しかしまだ29ページ目だ。しかしすでに結論が書かれていて、圧倒的な普遍性を感じる。
「すなわち他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由になればなるほど、そしてまた彼がますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。」
これは要は、能動的にしろ受動的にしろ、自由度の強さに応じて何かに対するコミットメントが必要となる、ということでいいんだろうか。逆に言えば、個人の確立というのは、何にどれだけコミットしているかという、そのコミットの質の問題ということになるんだろうか。
さらに視点を変えると、自由というものがそういうものなのだとしたら、なぜそれにも関わらず自由という言葉に憧憬を覚えるのだろうか。
イーガンの短編で、イデオロギーが物理的な吸引力を持つ世界でその間隙を縫って歩く人は、実は「その間隙を縫う」というイデオロギーの力場に閉じ込められており、そのことを認めるのはひどく痛みを伴った、みたいな話があるんだけど、これはなんか示唆的だ。
自由というのはそういう、必ずメタの視点から眺めることを強要するような力があるような気もする。
自由つながりで、ミヒャエルエンデが自由の牢獄という短編を書いているが、そこで言われている自由と、上の自由は何か別の話のような気がする。

この本が強く心を動かすのは、ナチズムの反省という、非常に大きな歴史的な反省を、自分たちにとっての切実な問題として書ききっているところにあるんだろう。普遍性というのがどうやって得られるのか、という意味でも興味深い本だ。

まあ、とにかく全部読もう。

次は、自由と去就というテーマで書く。


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このページは、kampeiがJune 17, 2009 5:29 AMに書いたブログ記事です。

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