October 2009アーカイブ

今、自分の作っているものが、少しずれている感覚がある。

イメージできない要素を多く盛り込みすぎてしまった。

自分の経験値が活きない領域が多すぎる。

かといって、イメージできる範囲にゴールを見いだせない。

結果として、精度が落ちる。

理屈のための理屈に陥る。

 

この感覚には記憶がある。

いわゆる、スランプというものかもしれない。

しかしとにかく、作り続けるしかない、挽回するしかない、ということも知っている。

従来は、基底現実の場における人格のスイッチ、モードのスイッチがあった。

家族の中の自分と、学校の自分、会社の自分では、自分の人格が変わる、とか、そういうの。

電話でも少し人格は変わるし、手紙という文字メディアになると、もっと極端にコードは厳しくなった。

 

今、基底現実の上に、ネットという、無限に増殖可能なメディアのプラットフォームが出現した。そのメディア上での人格も、そのメディアの特性に合わせて変わる。メールとブログとMixiとTwitterでは、人格が違う。

 

ネットが現れて、人間の持つ人格の量が無限に増えることになる。

人格のよりどころ、主体のよりどころ、意識のよりどころを決めるのが難しくなる。

 

一番コミットしているメディアの場での人格が、その人にとってもっとも表現したい人格になる。

とはいえ、我々の肉体と精神は、当分基底現実からは逃れられない。

その背反を不条理だと感じるひともいるだろう。

僕の前には僕がいて、

僕はその僕の目を通して風景を見、

その耳を通して音を聞く。

その僕は何も語らないけど、

僕の中にはいろいろな言葉が溢れてきて、

その言葉を頭の中で反芻したり、口に出してみたり、紙に書いてみたりする。

僕の吐いた言葉が光になり音になり、それをその僕が見たり聞いたりすると、その僕は何も語らないけど、僕の中には、またいろいろな言葉が溢れてくる。

僕は、僕というものと、そうやってやりとりしている気がする。



model.png


図の要望があったので書いてみた。
山を見て、それがきれいだと思ったとして、
そのとき、なぜそれをきれいだと思ったのか、
どこまで理屈を考えても、結局は、そう感じたから、としか言いようがない。

あるいは、きれいという言葉が、自分の中の感興とどれくらいマッチしているのか

外部からの刺激に対する反応、内部からの情動は、常に自分の意識や論理の外からやってきていて、
僕らはそれを、後付けで、言葉や行為に変換しているだけなんじゃないか。

ただ、言葉として出されたものは、無為な僕にフィードバックを与えることができてるんじゃないか。


そんなことを思いました。





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