January 2010アーカイブ

連続性について考える。

 

想起するのは、順列都市で行われる、世界のシャッフル再生のシーンだ。

そこから展開される塵理論はついていけないけど。

 

とにかく、我々は連続性を感じる世界にいる。

非可逆的に思える世界にいる。

 

意味は、全て連続性の中から生まれてくる。

 

連続性こそが世界だ。

植物とかミネラルとか置いておいて、

我々の食べるものは、基本的に死んでいるものだ。

客観的には、我々は死を食している。

気持ち的には、我々は命を頂いている。

死を食しているのに、生を頂いている。

このズレは、なにか人間の思考の性癖の芯に触れている気がする。

生の反対は死なのだろうか。

生きているものが死んだ時、それは死んでいるという。

生があって、はじめて死がやってくる。

逆は無い。

生まれる前は死んでいない。

ただ、生まれていないだけだ。

 

死の大地から生命が息吹くと、感動を覚える。

それは死と生の順序が逆転しているからだ。

 

生の後の死はいつまで続くのだろうか。

無限に死という状況が続くのだとすれば、死に対する生の時間は、限りなく無に等しくなる。

そうは思えない。

死というのは、生の残り香だ。

外見が生命の形を保ち、ヒトの記憶の中で生の面影を偲ぶことのできるあいだ、それは死んでいる。

肉体が土に帰り、人々の記憶から滑り落ちた生は、死ではなくなる。

ただ、存在しなくなる。

この世界にあって、生というのはなかなか特殊な現象のように思えるけれども、それと同程度に、死は特殊なのだと思う。

 

そういう、客観的な死という状態と、自分自身にやがて訪れる「死」というものは、果たして同じモノなのだろうか?

 

 

 

ということを正月早々考えた。

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