May 2010アーカイブ

平らかに鑑ること。得たものと、代償としてスポイルされたもの。

自分という一回性の経験にとって、統計的な判断にどれくらい意味があるのか。

 

目隠しして高速道路を横断する。

99.9%の人は途中で跳ねられる。

しかし1000人のうち1人は絶妙なタイミングで対岸までたどり着く。


このとき、自分が99.9%側の人間なのか、選ばれた人間なのかは、渡ってみないと分からない。
そして渡ってみて結果が分かった時点ではもう、確率は意味をなさない。
これは、99.9%安全な横断歩道を渡る場合にも言える。


そんなことを思うけど、だからといって気軽に高速道路を横断しようとは思わないし、恐怖におののきながら横断歩道を渡ったりもしない。

我々の日常においては、蓋然性が有効に機能してる。
農耕に始まる、文明の成り立ち自体が、未来を予測可能にすること、蓋然性を高めることを目的としている。

 

ハートロッカーとかアンナプルナ登頂の極限の世界は、蓋然性と運命がせめぎ合う世界なのだろう。
そこにはリアルな生の肌触りがあるのだろう。

 

本質的には、我々の日常も、蓋然性と運命がせめぎ合っているはずなのだ。 
だが私は、蓋然性の毛布にくるまってウトウトしている。

 

サイコロの振られる音を聞く耳を持たないといけない。

夜、皇居の周りを走るか歩いている。

左に黒い森。

霧が出ている夜は、輪郭が滲む。

遠くには巨大なビル群が固まって立っているのが夜に沈み、一つの巨大な灰色の城塞のようだ。

その灰色の城塞の無数の窓から光が漏れている。

 

その抽象化された風景をみていると、今自分は走っていると同時に、

あの巨大な城塞都市の窓の光の下にも居るような気持ちになる。

過去から未来へ向かう矢がペタンと横に倒れ、

全てが今同時に起きているような気持ちがする。

 

これは多分ノスタルジーだ。

過去と未来を得たヒトが、その束縛から逃れられる瞬間、というのが、ノスタルジーなんじゃないかと、思った。

 

事物が抽象化されると、そこにヒトは勝手に情報を補間する。だから抽象的な事物は豊かなのだ。

みたいなことを書こうと思ってたんだけど、全然そういう話にならなかった。