蓋然性と運命
自分という一回性の経験にとって、統計的な判断にどれくらい意味があるのか。
目隠しして高速道路を横断する。
99.9%の人は途中で跳ねられる。
しかし1000人のうち1人は絶妙なタイミングで対岸までたどり着く。
このとき、自分が99.9%側の人間なのか、選ばれた人間なのかは、渡ってみないと分からない。
そして渡ってみて結果が分かった時点ではもう、確率は意味をなさない。
これは、99.9%安全な横断歩道を渡る場合にも言える。
そんなことを思うけど、だからといって気軽に高速道路を横断しようとは思わないし、恐怖におののきながら横断歩道を渡ったりもしない。
我々の日常においては、蓋然性が有効に機能してる。
農耕に始まる、文明の成り立ち自体が、未来を予測可能にすること、蓋然性を高めることを目的としている。
ハートロッカーとかアンナプルナ登頂の極限の世界は、蓋然性と運命がせめぎ合う世界なのだろう。
そこにはリアルな生の肌触りがあるのだろう。
本質的には、我々の日常も、蓋然性と運命がせめぎ合っているはずなのだ。
だが私は、蓋然性の毛布にくるまってウトウトしている。
サイコロの振られる音を聞く耳を持たないといけない。

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