intara-juku: August 2008アーカイブ
インタラクティブなものが主体の到達可能な場所にあるとする。
しかしまず主体側からアクションを仕掛けなければ、インタラクションは開始されない。
インタラクティブは主体に能動性を要求する。
さらに戻ると、そこにインタラクティブが存在することを気づかれなければ、それは無いに等しい。
1.気づかれる
2.接触される
という段階を経て、ついにインタラクションという現象が発生する。
この2つの段階を進むためには、インタラクティブ側の努力が必要だ。
気づかれるためには、まず気づいてもらう努力がインタラクティブ側に求められる。
気づかれたら、次に、あえてインタラクティブに関与する気持ちを主体から引き出す努力が求められる。
ユーザーの行動圏に気づきの印を放り込まない限り、気づかれることはないだろう。
アクションに対するフィードバックが主体にとって利益となることが保障されない限り、契約はなかなか成立しないだろう。
これは、こここそが、目下自分たちにとって最大の関心事だ。
明日はインタラクティブに至るまで②として、気づきと接触に必要となる条件についてもう少し考える。
初志は早くも萎えているけど、とにかく続ける。
主体がアクションを起こし、フィードバックが返されるまでの時間。
クリックした瞬間に反応が返されればそれはフィードバックとして認識される。
クリックして1時間後に反応があっても普通は気づかない。
クリックして1時間後に反応があることを、あらかじめ知らされていれば、待つ可能性がある。
クリックして1時間後に反応があるのは、例として極端だ。
1時間後に反応が返ってくるのは、例えばメールなどの、意思を持つ主体間でのやり取りになるだろう。
即時性のフィードバックは、身体的な快楽に結びついている。
先送りされるフィードバックは、未来への期待に結びついている。
即時性のフィードバックは、時間の概念を持たないだろう、動物とかでも楽しめる。
先送りされるフィードバックは、時間を獲得してる人間じゃないと捕捉できない。
フィードバックされるまでの時間の伸張は、音楽として、物語として、機能する。
明日は、インタラクティブに至る過程をもう少し考える。
ボタンをクリックするまでの、キーをタイプするに至るまでの、思考の流れを想像する。
今度人前でインタラクティブについて話すので、準備をしていきたい。
まずは素朴な考えを出し切っていく。
インタラクティブとは名詞なのか。
インタラクションと違うのか。
インタラクティビティと違うのか。
クリエイティブも名詞なのか。
日本語の語感として、最後の「ぶっ」で終わるところが元気があっていいんだろう。
日本語では名詞ということでいいだろう。
インタラクティブな事象はなにか。
インタラクティブとは、自分から見たとき、こちらからのアクションに対して、リアクションがあることだとする。
インタラクティブでない事象はなにか。
インタラクティブでないとは、外部に対してアクションを起こさない、内部的な行為に留まることだ。
内省はインタラクティブでないのではないか。
その行為だけ見れば、自己完結しているかに見えるけれど、
内省に至るまでに、なんらかの外在性の刺激を受けてるはずだ。
だから、時間の範囲を広くとれば、内省もインタラクティブの一部に取り込まれる。
人間の内部と外部のインターフェイスは基本的には五感だ。
でもこれはTCP/IPみたいなものじゃないのか。その上にいろんなレイヤーが乗っかっていてとてもではないけど整理できない。
インタラクティブでないとは、こちらからのアクションに対してリアクションがないことだ。
インタラクティブでない事象とはなにか。
反応しないボタンはインタラクティブじゃないのではないか。
まず、それがボタンだと認識された時点で、お互いのチャンネルは開いている。
なので、これは反応が無いという反応を返していることになるんじゃないか。
それをボタンと認識しなければ、それを押さないのだ。
アクションを仕掛けた時点で、リアクションは約束されている。
インタラクティブという行為の始まりはどこなのか。
インタラクティブであることの前提に、まずそれがアクション可能な対象であることを認識する必要がある。
そのためには、まず対象が自分に対して認識されるよう努力する必要がある。
そのためには、まず自分が対象に対して認識される価値のある対象である必要がある。
これは堂々と巡った。
ここから、人に話せるところまで整理していけるとはとても思えない。
